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転がる石のように名盤100枚斬り 第12回

転がる石のように名盤100枚斬り 第12回

#89 Dusty in Memphis (1969) - DUSTY SPRINGFIELD

『ダスティ・イン・メンフィス』- ダスティ・スプリングフィールド


アデルが苦手だ。


映画『007 スカイフォール』を観に行ったら、オープニングでアデルの歌が流れて、意気消沈。重い。いきなり重い。


グラミー賞にも輝いた「Hello」は、PVもウェットなつくり。別れた相手に「もしもし? 私の声が届いてる?」なんて未練たっぷりに問いかける。怖い。かなり怖い。


アデルが、イギリスが生んだ21世紀最高のスターの一人であることは間違いない。デビュー以来、3枚のアルバムを発表し、そのすべてが大ヒット。トータルセールスは、3000万枚を突破している。


圧倒的な歌唱力と表現力は、唯一無二。世界が彼女の前にひれ伏したのも無理はない。音楽としての強度を感じる。一曲一曲、世界観が構築されている。歌聞いてると画が浮かぶもんね。でも、その「強度」が逆にツラい。彼女の歌声を聴くたびに、そこからほとばしる情念に、胸がつかえるような感覚を覚えるのだ。


サシがきれいに入った黒毛和牛は、間違いなくうまい。でも、毎日は食べられない。トロの刺身も、たまにはいいけどさ、かまぼこの方が本当は好き。そんな感じ。



「そりゃ、歳のせいじゃね?」なんて意地悪なことは言わないように。



アデルの先駆けとも呼べるイギリス出身のシンガーがいる。今回紹介するダスティ・スプリングフィールドだ。彼女の『ダスティ・イン・メンフィス Dusty in Menphis』は、『ローリング・ストーンが選んだ史上最も偉大なアルバム』で89位にランクインしている。


五十路前の世代には、ペット・ショップ・ボーイズと組んでリリースしたヒット・シングル「とどかぬ想い What Have I Done To Deserve This?」(1987年)でおなじみ。あと、バート・バカラックの作品を集めたコンピ盤で何曲か歌っていたはず。クエンティン・タランティーノ監督映画のサントラにも収録されてたよなぁ、あれは『ジャッキー・ブラウン』だったけなぁ、と見てみたら『パルプ・フィクション』でした。


ダスティ自身は1960年代ヒットを連発し、現在では、元祖「ブルー・アイド・ソウル・シンガー」と称されている。『ダスティ・イン・メンフィス 』は、タイトル通り、彼女がアメリカ・メンフィスに渡ってレコーディングした作品だが、『ローリング・ストーン』誌が、『史上最も偉大なアルバム』の記事で、このアルバムの制作状況について触れている。


「このアルバムを作るために彼女をメンフィスに連れて行ったのは、アトランティック・レコードのプロデューサー、ジェリー・ウェクスラー。しかし、ダスティは、敬愛するアレサ・フランクリンやウィルソン・ピケットのヒット曲でバックを務めたミュージシャン達と共演するという計画にビビってしまった。実際、メンフィスでは、1曲も歌うことができず仕舞い。彼女のヴォーカルは後日、ニューヨークに移動してから収録されたものだ」


この作品のレコーディングの時点で10年以上のキャリアを積み、全米トップ10ヒットを何曲も記録していたのに、メンフィスまで行って、本場の腕利きミュージシャンを前に、プレッシャーでロクに歌えないとは。肝心の場面での、この勝負弱さ。シンパシーを感じる。


でも音を聴くと、そんなエピソードは微塵も頭に浮かばない。ダスティの歌声は終始リラックスしていて、独特の艶っぽさがある。アデルみたいに情念をぶちまけることもない。


バート・バカラック、キャロル・キング、ランディ・ニューマンといった錚々たるソングライターによる楽曲群が、また素晴らしい。キャロル・キングとゲーリー・ゴフィンのチームは、なんと10曲中4曲を手がけている。


なかでも、もっとも印象に残るのは、リード・シングルとして発売され、全米・全英チャートでトップ10ヒットとなった(そして後年映画『パルプ・フィクション』で発掘された)「プリーチャー・マン Son of a Preacher Man」。


ジョン・ハーレーとロニー・ウィルキンスからなるソングライティング・チームによる楽曲で、もともとはアレサ・フランクリンのために書かれ、レコーディングもしたけど、結局リリースされなかった。そんな曲を提供されて、アレサを崇拝していたダスティは、そりゃ、気合いが入ったやろう。


ほかのソウル・シンガーに比べると、ダスティの声は、ある種の「軽み」と「涼やかさ」があって、この曲のしゃれた感じにすごく合う。静かに始まってジワジワと盛り上がってくる構成も好き。


このシングルは大当たり。アルバムの方も評論家の絶賛を呼んだというから、ダスティもガッツ・ポーズしたはず。アルバムの大ヒットも間違いなしと、誰もが思うじゃない?



でも、現実は甘くなかった。



アルバムは1969331日にリリースするも、アメリカでの最高位は99位。イギリスではチャートインすら果たせず。



なんでか?



答えは簡単に思い当たる。チャートで不発だった最大の理由は、間違いなく時代とのズレだろう。1969年と言えば、『ウッドストック・フェスティバル』が開催された年だ。時代が求めていたのは、オーソドックスでウエルメイドなR&Bではなく、より自由でクロスオーバーな音楽、たとえば、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのようなトガったファンクや、ジミ・ヘンドリクスのような斬新でハードなロックだった。


反体制志向の強い当時の若い衆には、評論家に絶賛されたことも、「気取ったアルバムだ」と敬遠する理由になったかもしれない。

そして、ダスティには、テクニックとセンスはあるけど、よくも悪くもアクがないのだった。


たとえば、同じ白人シンガーでも、『ウッドストック』にも出演したジャニス・ジョプリンの歌唱にはダスティにはない「ブルース」が宿っている。たとえば、冒頭でディスったアデルの歌唱に感じる、聴くものすべてを巻き込むような「トゥーマッチな何か」があれば、話は変わったかもしれない(実際、アデルの音楽は、決して「時代の先端」とは言えない)。


ダスティの美点である、「軽み」と「涼やかさ」そして、「趣味のよさ」は、1969年には、見向きもされなかった。この後、ダスティは長いスランプに陥る。『ダスティ・イン・メンフィス』のクオリティは間違いなく素晴らしいのに、なんで受け入れられなかったのか、彼女には、きっと理解できなかったんじゃないか。


再び脚光を浴びたのは、前述のペット・ショップ・ボーイズとのコラボだってんだから、15年以上は干されてたんだなぁ。そして、『ダスティ・イン・メンフィス』が、再評価されたのは1990年代だったんだって。


リリース当時はダスティに大きな痛手を与えたけど、最終的には彼女の名前を歴史に刻むことになったアルバム。泣かせるなぁ・・・・・・ってことで、みなさん、ぜひ聴いてください。



おっちゃん的名盤度(5つ星が満点):★★★★








長谷川 和芳
長谷川 和芳

長谷川 和芳 KAZUYOSHI HASEGAWA

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1969年、福岡県のディープエリア筑豊生まれの編集者・ライター。414Factory代表。メインの業務は染織作家の家人の話し相手。