酒場SAKABA
山口洋(HEATWAVE) |博多今昔のブルース Vol.19〜車検切れの身体
よくもまぁ、これまで酷使に耐えてくれていた、とは思う。でも、それはいきなりやってくる。
ある夜のこと。コンピュータに向かっていたら、とつぜん右目の視界に変調が。ただならぬ感じに「うわ!脳が!」とびびったが、痛みも何もない。友人の医師に電話したなら、網膜剥離ではないか、と。
翌日、地元の眼科へ。出血はひどいが、おそらく網膜はそこまで傷ついていないので、3週間様子をみましょう、と。眼底出血なのか網膜剥離なのか、なんともグレーな診断。今思うと、ここで違う病院にいくべきだった。アーメン。でも人はいいニュースを信じたがる。
律儀に薬を飲み続け、ライヴをやったり、プロモーションしたり、重たい楽器を運んだり。普段の生活を続けること3週間。一向に改善する気配なし。むしろ悪化の一途。
再度その眼科を訪ねたなら、ドクター、モニターを見てこうおっしゃる。「これは大変だ。紹介状を書きますから、今すぐ大きな某病院に行ってください」。
なんだったんだ、この3週間。
しかし、そのドクター、翌日は休診のため、翌々日の朝イチに紹介状を取りに来いと。
仰せの通り、取りに行ったなら、封筒に下手クソな字で「緊急」と書いてある。緊急なら一昨日書いとかんかい!と立腹しつつ、紹介された大病院へ。あとで知ったのだが、シリアスな網膜剥離の手術は一刻の猶予もないのだった。おいおい。
しかーし、大病院は完全予約制。飛び込みでは診てくれない。くだんのドクターがこちらのドクターに一報入れてくれていることを期待したが、それもなし。てめー、ほんとにいい加減にしろよ。
さて、ここは失明にまつわる天下分けめの闘いだ。笑。オレは受付の女性に食い下がる。たぶん、診ていただかないと失明するんです。ロッカーがレイバンのタレ目サングラスでゴネたのが効いたのか、その日の最後に診てもらえることに。
待つことなんと7時間。オレの目を診察した若いドクター、「こりゃたいへんです。今チーフが手術中なので、戻ってきたら、一緒に再度診察します」。
しばらくしてチーフ登場。診察していわく。「これから今、すぐ手術します」。「え?一瞬、家に帰らせてください」。「そんな時間はありません」。ひえーーーっ。
どうやら、ひどかったのである。失明寸前。その日、6件の手術を終えたばかりのチーフ。オレのためにさらに手術を手配し、オレは検査だのなんだの、PCR検査もだ、あっという間に入院の手続きが取られ、手術敢行。
簡単にいうと、目ん玉に空気を入れて網膜を張りつかせるのである。少なくとも1週間はうつ伏せで生活することになる、、、。24時間うつ伏せって、あなた、これはなかなかの拷問。
2日目の検診で再手術が必要と言われ、3日目に再び手術。もう、ここまできたら、なんでもきやがれって若干ヤケ気味。
でもね。医療が大変なこの時代に(もちろんこの病院にもコロナ患者はいた)医師、看護師、毎日掃除してくれるスタッフまで。志を持って、身を削って働いていた。なんだか、とってもこころを動かされた。特に最初の眼科の医師がひどかった分、誠実さと、優しさが骨身に染みた。
結局3週間と覚悟していた入院生活も最速の8日間で無罪放免。シャバの空気はうまかった。
たいせつにしなきゃいけないもの。身に染みた。自分の役目もはっきりと見えた。ロッカーが書くことじゃないけどさ、誠実さと志と思いやりだってば、ほんとに。
車検切れの身体。もう車検は通らんかもしれんし、パーツも売ってない。笑。でも、まだまだ行きますよ。このツインカムのエンジンとキャブレーターと足回り。ポンコツだけど、走ることが好きなんだよ。
ヴォーカリスト、ギタリスト、ソングライター、プロデューサー、そしてランナーにして、スノーボーダー。
1979年、福岡にてヒートウェイヴを結成。1990年、上京しメジャーデビュー。現メンバーは山口洋(vo.g)、池畑潤二(ds)、細海魚(key)。山口洋がソロツアーの旅で新たな曲をつくってバンドに持ち帰るというスタイルで、ほぼ全曲の作詞と作曲を担当する。1995年の阪神・淡路大震災後、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)と「満月の夕」を共作。2011年の東日本大震災直後からは「MY LIFE IS MY MESSAGE」プロジェクトのさまざまな活動により、福島県の相馬をピンポイントで応援し続けている。仲井戸麗市、佐野元春、遠藤ミチロウ、矢井田瞳ら国内のミュージシャン、ドーナル・ラニー、キーラらアイルランドを代表するミュージシャンとの共演も多い。
http://no-regrets.jp