酒場SAKABA
山口洋(HEATWAVE) | 博多今昔のブルース Vol.2〜みつばのおいちゃん
photo by 三浦麻旅子
みつばのおいちゃん
福岡におけるHEATWAVE最大の恩人は通称「みつばのおいちゃん」。彼がいなければ、僕らは音楽活動を続けることができなかった。
音楽にはまったく興味がない元競輪選手のおいちゃんが経営する練習スタジオ「みつば」は東区唐ノ原にあった。はじめはラーメン屋とゲームセンターを営んでいたのだが、九州産業大学の学生にそそのかされて、音楽スタジオを始めたのがおそらく80年ごろの話。
スタジオとはいうものの、プレハブでできたゲームセンターの中を、保健室のついたてで仕切られただけの空間。インベーダー・ゲームの中で、アンプの爆音が鳴り響く、今考えてみると実にシュールな空間だった。
でも、その破れかぶれなアパッチ野球軍(知ってる?)感が実に東区チックで、おっしょい、フルノイズ、そしてHEATWAVE。いくつかの群れないバンドたちを生み出していく。
高校生だった僕は怖くてフルノイズに話しかけることができなかったから、スタジオの薄い壁に耳をくっつけて盗み聞きした。そのお礼とお詫びを先月ついにヴォーカルのマサルさんに伝えることができた。実に40年越し。
僕らは北九州が生んだザ・ルースターズを500円で体験して、こんな一枚岩のようなサウンドを出すには徹底的な練習しかないことを悟った。
僕はおいちゃんに頼みこみ、おっしょいが巣立った後のわずか3畳ほどのスペースをHEATWAVE専用スタジオとして月3万円で借りることに成功した。楽器は常に置きっ放し。いつだって練習できる。来る日も来る日も練習あるのみ。そして壁には水中マスクとシュノーケルが掛けてあった。腹が減ったら東区奈多の岩場までバイクで出かけて、ウニを密漁して飢えをしのぐのだ。
バンドの名がそれなりに売れてきても、ツアーに出ると多大な借金を背負うことになる。それゆえ、スタジオ代が払えず、ツケはどんどんたまっていく。それでもおいちゃんは怒らなかった。僕らを息子のように可愛がってくれる。「あんたたちは夢があるけんね」。お詫びに年末にはスタジオじゅうの大掃除をする。すると、おいちゃんは必ず出前で鮨をとってくれるのだった。「好きなだけ食べんしゃい」、と。
デビューと上京が決まって、都久志会館でコンサートをやることになった。700人は入ったと思う。机の上には札束が積み上げられた。初めての光景。ちなみにほぼすべてが1000円札。
僕らは札束を握りしめ、男のけじめとして、まずはみつばに向かう。たまっていたおいちゃんへの未払金、約60万円をすべて1000円札でお返しする。
すると、おいちゃんがスタジオの奥からなにかを取り出してくる。最先端のラジカセだった。「餞別たい」。僕らは込み上げてくるものをこらえながら、そのラジカセに「スタジオみつば」と書いてもらった。
これは福岡の男の人情の物語。
数年前。おいちゃんが高齢のため、ついに廃業するという知らせを聞いた。
世話になったミュージシャンをかき集め、最後にもう一度だけみつばで練習することにした。そういえば、一度もおいちゃんと飲んだことすらなかったから、店を予約して、みんなで感謝状を贈呈する。
おいちゃんが泣いていた。
おいちゃん、今でもバンド続けられるのは、おいちゃんのおかげやけんね。いつまでも元気でいてね。
育ててくれた町に愛を込めて。
photo by Chiyori
ヴォーカリスト、ギタリスト、ソングライター、プロデューサー、そしてランナーにして、スノーボーダー。
1979年、福岡にてヒートウェイヴを結成。1990年、上京しメジャーデビュー。現メンバーは山口洋(vo.g)、池畑潤二(ds)、細海魚(key)。山口洋がソロツアーの旅で新たな曲をつくってバンドに持ち帰るというスタイルで、ほぼ全曲の作詞と作曲を担当する。1995年の阪神・淡路大震災後、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)と「満月の夕」を共作。2011年の東日本大震災直後からは「MY LIFE IS MY MESSAGE」プロジェクトのさまざまな活動により、福島県の相馬をピンポイントで応援し続けている。仲井戸麗市、佐野元春、遠藤ミチロウ、矢井田瞳ら国内のミュージシャン、ドーナル・ラニー、キーラらアイルランドを代表するミュージシャンとの共演も多い。
http://no-regrets.jp